2009年11月14日土曜日

投稿作品4(11月10日までの分)

 コンスタントに投稿してくれる人たちの作風がはっきりしてきて、読むほうも、よい意味で慣れ、落ち着いて読めるようになってきました。慣れ過ぎるのもいけないのですが、詩歌では、慣れが深い読みに導いてくれるというところも、やはりあります。読む側からすれば、馴染みの作風がいくつもあるというのは、やはり楽しみでもあり、日々の気持ちの豊かさに通じていくものでもあります。自分の心だけでは受容できない世界の味わいや様相を、他人の心と表現行為を通して受け止められるというところに、詩歌や他の芸術行為の価値があります(価値は、それらのみにはもちろん留まりませんが)。
 詩歌を読んだり、詩歌とつきあったりしていくには、人間関係に似て、こんな「慣れ」、「馴染み」、ときには「馴れあい」さえをも、よりよい読解環境を作っていくものとして受け入れる必要がありそうです。ひじょうに大きな意味で、詩歌とはけっきょく、人づきあいです。他人や自分の言葉づかいの癖や工夫を、単純に拒否したり褒めたりするのでなく、大きな態度で受け入れるところに、詩歌のもうひとつ深い味わいが出てくる契機がありそうです。


◆投稿作品4(11月10日までの分)◆

青木さんのコメント...
さりげなく投稿。。。
雨の音ひとつぶひとつぶ連なって減三和音がひびく午後の末
雨止んで雀がにわかに鳴くころに待ち人はふと来るのだろうか
夕焼けの色がそのたび違うこと誰にも言わずにひっそりと見る
雑踏のひときわ大きな声の主にも聞こえている日の暮れる音
外灯の明かりに吸いよせられて来た子どもたちの言う未来完了
ごめんねを言われてもごめん分からないそのときの気持ち忘れたから
2009/10/23 10:52

鈴木有さんのコメント...
図書館を出たら、台風で、家に帰れなくなりました。石焼きビビンバを食べ終わるころには、台風がしずまってると思いました。食べ終えたときには本当に静まっていて、びっくりしました。ぼくは、帰ろうとおもって、レジに向かってたら、サイフにお金がほぼ入っていないことに気づきました。気づいてすぐに「あ」と叫びごえを店内で上げました。この発声の結果、中国人の日本語がしゃべれる店員さんは、「イイヨイイヨ、ツギキタトキデ」と、僕が払わなければいけない850円の問題について話しました。ぼくはアッと思って、そういえば、このお店は、ぼくのアルバイト先の面接官だった神田(カンダ)さんが、お金がない状態でなにかを食べて、そのまま払わなかった、とぼくに伝えてきたお店であることを思い出しました。神田さん(カンダさん)は、今年の11月に横浜のコンチネンタルホテルで、(はじめ、名前を聞き間違えて、「センチメンタルホテルですか」と聞き返したら「センチメンタルじゃ、そんな、センチメンタルじゃ……」と言っていた)結っこん式を上げることになっていて、その式場で、ぼくは、祝祭の短歌を、2首読みあげることになっているのです。来週の短歌です。
図書館を出たらすんげえ台風で石焼きビビンバ食べに行くのだ
小野小町で浮かべるものはなんですか ぼくは「遣唐使」と答えけり
小・中・高・大 授業のときに立方体ばかり書いてたノートの余白に
2009/10/30 19:21

鈴木有さんのコメント...
>>自分にたいして。いちばん上の3行、削除したほうがよかったな、残念。
2009/10/30 22:54

うぐいすさんのコメント...
うぐいすです。新型インフルエンザに罹りましたが、タミフルのおかげで早く治りました。
風邪をひき分かる自分の脆弱さ元気のないのは心の方だ
誘われてまんまと罹るインフルの猛威をしばし抑えよタミフル
熱が引きふしぶし痛む関節も徐々にやわらぎ咳も落ち着く
木も草も生きる力に前向きで愚痴も言わずに育っていく
爽秋の胸張る空に白い雲銀杏並木ゆるりとすすむ
ラッシュアワー三ヶ国語が軋みあい談話が走り文化が揺れる
(西武線の混雑時、仏語に英語に韓国語が飛び交っていました)
2009/10/31 0:25

鈴木有さんのコメント...
ごめんなさい。3回も続けて投稿してしまって。ものすごくいけないことをしている気がします。3首目の短歌を、小・中・高と授業のときに立方体ばかり書いてたノートのすみに(小・中・高・大 授業のときに立方体ばかり書いてたノートの余白に)と変えたくて、今、書き込んでいます。ずるいけれども、自分のために、いままで書いた修正を当てはめて、もういちど最初から書かせてもらいます。(もう、いくらなんでも、来週の火曜日まで、書き込みません。)             
☆ぼくは、帰ろうとおもって、レジに向かってたら、サイフにお金がほぼ入っていないことに気づきました。気づいてすぐに「あ」と叫びごえを店内で上げました。この発声の結果、中国人の日本語がしゃべれる店員さんは、「イイヨイイヨ、ツギキタトキデ」と、僕が払わなければいけない850円の問題について話しました。ぼくはアッと思って、そういえば、このお店は、ぼくのアルバイト先の面接官だった神田(カンダ)さんが、お金がない状態でなにかを食べて、そのまま払わなかった、とぼくに伝えてきたお店であることを思い出しました。神田さん(カンダさん)は、今年の11月に横浜のコンチネンタルホテルで、(はじめ、名前を聞き間違えて、「センチメンタルホテルですか」と聞き返したら「センチメンタルじゃ、そんな、センチメンタルじゃ……」と言っていた)結っこん式を上げることになっていて、その式場で、ぼくは、祝祭の短歌を、2首読みあげることになっているのです。来週の短歌です。
図書館を出たらすんげえ台風で石焼きビビンバ食べに行くのだ
小野小町で浮かべるものはなんですか ぼくは「遣唐使」と答えけり
小・中・高 授業のときに立方体ばかり書いてたノートのすみに
(小・中・高・大 授業のときに立方体ばかり書いてたノートの余白に)
2009/10/31 12:40

マルディさんのコメント...
こんにちは。お久しぶりです。
ベランダにのびるその枝百日紅(さるすべり)哀れくすんだ花を残して
示された番地丸めてそのままの冬のコートを奥よりいだす
カンパーニュ・プルミエール通りうろつけばフジタ?マン・レイ?住みびとが問う
どのようにここに居たのか我がきみの代替にする堀江敏幸
抱えた本に胸痛くなる箇所あって気付けば部屋に闇が来ており
ひらひらと舞い散る木の葉記憶にも言葉にもなり吾を惑わす
2009/11/04 14:19

青木 さんのコメント...
>示された番地丸めてそのままの冬のコートを奥よりいだす
寒くなってきて、冬のコートを出したら、なにやら前の冬に入れたままになっていたらしい紙が入っていた、という歌ですよね?これがわりと良いかなと思いました。「わりと」良いと書いたのは、下の句の「冬のコートを奥よりいだす」がもう少し何かならないかな、と一瞬思ったからです。はじめの「示された番地丸めてそのままの」が結構おもしろいなと思って、下の句読んだら意外と普通だった、、、みたいな。。でもよく読んでみると、これはこのままシンプルで良いような気もしてきます。「示された番地」から喚起される想像をどこまで広げるのか、広げないのかですよね。
2009/11/05 15:12

青木さんのコメント...
>抱えた本に胸痛くなる箇所あって気付けば部屋に闇が来ており
逆に、これはあまり良くないと思います。まず、「抱えた本に胸痛くなる箇所あって」が説明的。そして、「部屋に闇が来て」という表現は、いかにも詩っぽい感じがしますが、あくまで「いかにも詩っぽい」だけで、実際はとても陳腐なような気がします。だから、この歌には、あまり「詩」を感じることができません。マルディさんは、言葉のチョイスになかなか他の人には持ってないおもしろさがあることが多いので、とてもおもしろい作品が作れそうな気がします。
2009/11/05 15:20

青木さんのコメント...
>小・中・高 授業のときに立方体ばかり書いてたノートのすみに
(小・中・高・大 授業のときに立方体ばかり書いてたノートの余白に)
僕は、これは「余白」の方が良いような気がします。すみと余白では意味が異なりますが、余白の方が読み手の想像力が広がるのでは?あとは、「ノートのすみ」という表現自体にあまりおもしろみがないというのもあるかもしれません。
2009/11/05 15:22

マルディさんのコメント...
青木さん、ありがとう。5首目(と6首目)は自分でもちょっと嫌でした。私は歌に固有名詞を使いすぎていることを気にしていて、それをどうにか回避してみたらこの有様です。5首目、がらっと変えました。
“『腕(ブラ)一本』1月2日の初夢”に吸われた午後の手写して遊ぶ
(藤田嗣治『腕一本・巴里の横顔』講談社文芸文庫、2005年、246p)
2009/11/07 21:36

青木さんのコメント...
>“『腕(ブラ)一本』1月2日の初夢”に吸われた午後の手写して遊ぶ
そうそう、こういう言葉の使い方がマルディさんらしい!でも、読むとまだ、日記的というか、本を読んで午後をつぶしましたというのをそれっぽく言い換えただけになってると思います。この言葉でおもしろい一首が作れそうなだけに非常に勿体ない。たとえば、こんな感じにしてみると、マルディさんの言いたいこととは違うかもしれませんが、少しだけ日記的な短歌から抜け出せると思いません?“『腕(ブラ)一本』1月2日の初夢”が醒めないわたし嵌(は)められている?ちなみに、「ブラ」って一体何か分からなかったんですが、おそらく"bras"のことですよね。。。
2009/11/07 22:30

青木さんのコメント...
昨日投稿した後に思ったのですが、
“『腕(ブラ)一本』1月2日の初夢”を見ているうちに夜となりぬ
このくらいシンプルでもいいかもしれません。こっちの方がはじめの言葉のおもしろさが生きるかも。
2009/11/08 8:05

マナ子さんのコメント...
こんにちは、投稿します。またどうも陰気になってしまいました。
痛いのか憎いか辛いか悲しいか七十回目の死を死ぬ勇者
暇潰し流れて生きれば幾年か(早く人間になりたい!!)
ほの暗き臭気冷気のみ覚えおり休み時間の便所太宰の
(小説の内容は忘れました)
おかあさん父祖母弟友あなた 喜ばせたし傷つけたくなし
くたびれて愛する人の多きことに 夜道呟く「誰がわかるものか」
ちぢこまる幼虫がいる冬の流し 湯気をそちらに扇いであげよう
網戸なし暖冷房なし風呂もなし“貧乏ごっこ”のつもりで住めばよし
2009/11/08 12:52

マルディさんのコメント...
マナ子さん、6首目素敵です。瞬間的母性を感じます。あと3首目は、そのマナ子さんの姿を太宰がどんな顔で天から見ていたかと想像すると第三者である私としては可笑しくなり、この歌も好きです。
青木さん、またまた鋭いご指摘です。まだ日記(記録)的なのは、写真に原因があるのかもしれません。ある写真から引き出された記憶をもとに作ったので。
“『腕(ブラ)一本』1月2日の初夢”を見ているうちに夜となりぬ
このシンプルさいいですね。私ももうひと頑張りしてみました。
“『腕(ブラ)一本』1月2日の初夢”で失くした午後フィルムに残れり
鈴木さんの3首目「すみ」か「余白」かですが、私は「すみ」派です。余白だと少々堂々としすぎかと。こっそり行われた行為に潜むエゴに重点を置いたのかと思いました。
2009/11/08 20:03

礒部さんのコメント...
お久しぶりです、いそべです。今週は「電車」をテーマに考えてみた歌のなかから、いくつか後半に選んでみました。毎回、どの歌を投稿すればよいかとても悩みます・・・。
日が暮れて窓の外には寒空に響く子どもの「バイバイ」の声
夕暮れの街をせわしく交差する散りばめられたマフラーの色
口開けた通学かばんからのぞくふくらみ過ぎた赤い筆箱
終点の駅で降りゆく乗客を幾度見送る置き去りの傘
帰り道電車のなかで分けあった白いイヤホン片耳の音
君のこと忘れたくない忘れたい 触れてはならぬかさぶたのよう
電車から降りるあなたの背を見つつやさしく塗ったリップクリーム
2009/11/08 21:45

爆裂カレーライスさんのコメント...
電鉄の中で開いた携帯の首がぽろんと落ちてしもうた
「市川 という名字の人間は人を引っ張る力があるぜ」
2009/11/09 21:16

鈴木有さんのコメント...
青木さん。まずはじめに、文体にまた変化を感じました。気のせいかな、どんどん女の子っぽくなっているような、青木さんの中で女性化が進んでいるのかもしれません。短歌をつくるひとは、女性的な男性が多いということを、『現代詩としての短歌 (石井辰彦さん)』という本で読みました。それで、納得しました。だから、いい傾向なのかな、でも青木さんのばあいは、うーん、どうなんだろ、青木さんは、男っぽさの割合が、大きいほうがいいとおもいます。ぼくもそうです。それで、今回の短歌は「折衷主義」を感じすぎてしまったのです。批判されにくいけど目立たない短歌といえます。もうちょっと崩している、ぼくは青木さんの踊りを感じる短歌をみてみたいです。それから、青木さん。マルディさんは、興味深いことに興味があるんです。マルディさんの短歌をみて、なんなんだろうこれは、と思うのは、ぼくとか青木さんとか駿河せんせいとかが、興味深いと思うことに興味を持っているからです。偉そうに言うけど、やっぱり、現在の自分が興味深くなっていることを短歌にすると強いです。興味深いひとのことを短歌にすると、相聞歌になります。相聞歌の達人は、だいたいが、片思いの達人なんです。僕は今、大学の非常勤教師に明らかな片思いをしていて、気がついたときには、一首できていました。
マルディさん。4首目。きみの顔が、堀江敏幸に似ているのだとおもいました。10月11日の短歌の「岸辺四郎」といい、今回の堀江敏幸といい、マルディさんは、テレビにでてる有名人を短歌のなかに、うまく入れられる人だということが分かりました。“『腕(ブラ)一本』1月2日の初夢”で失くした午後フィルムに残れりあと、これいいね。この不気味さは快感になります。夢でなくした腕が、フィルムに残ってるっていうのが、すごい夢だなあ。ブラっていうのもいい。腕ってぶらぶらしているし、腕を一本だけぶらぶらさせている夢なのかなとおもいました。夢かあ、ぼくはきょうは、どこかを歩いていて、会うひとすべてにいじめられるという、いやな夢をみました。ぜんいん、じぶんの知っているひとで、恐ろしかったです。青木さん、メルディさん。3つめの短歌の感想、青木さんのはひじょうに的を射ていて、心を射られたとおもいました。射られました。マルディさんのは、エゴか、「こっそり行われた行為にひそむエゴ」かすごい考えかただなとおもいました。新しい発見です。ただ、この短歌、じつは、小・中・高と授業のときに立方体ばかり書いてたノートのすみに(小・中・高・大 授業のときに立方体ばかり書いてたノートの余白に)の書き写し間違えでした。ぼくの3つめの書きこみの2行目では、「と」が入っているのに、最後から2行前では「と」が抜けているんです。小・中・高 授業のときに立方体ばかり書いてたノートのすみに(小・中・高・大 授業のときに立方体ばかり書いてたノートの余白に)でも、マルディさんのコメントを読んで、「と」がないほうがいいかも、とおもいました。「と」があると焦点がぼやけてしまうことも、その理由です。だけれども、「と」がないのは、閉じられてしまっている感じがします。ぼくは、社会的な短歌をつくりたいとおもっています。ぼくの実際の自分の動きは、社会的でないことが多いからです。(社会的でないから、いま留年をしてて、6年生になってる)社会的な短歌とは、究極は、自殺を食い止めることが出来る短歌のことです。あと、短歌という木のためになる短歌も、社会的な短歌になります。開かれている短歌が、すべて社会的な短歌になってるとはいえません。でも、閉じられている短歌は、社会的でないほうが実感として多い気がしています。
「と」がないほうが焦点がぼやけません。結果、推測と想像がしやすくなります。しかし、読むひとは、一瞬、落ち込むひとが多いだろうなとおもいます。一瞬、落ち込んだあとに、あとで元気になれればいいんだけど、そういう短歌に、はたしてなっているのか。なってない気がしますね。だから、この短歌は、「と」が、あったほうが良いとおもいます。でも、これはあくまでもぼくの基準です。
礒部さん。3首目、ふくらみすぎた筆箱が破裂するのが、脳裏に浮かびました。5首目、だれと分けあったのだろうと思ったけれど、冷静に考えて、同い年くらいの男性だと思いました。7首目、これはつまり、電車のなかでリップクリームをぬったということです。ぼくの関心は、なぜ「あなた」が降りたあとに、リップクリームをぬったのかということです。リップクリームはくちびるがかわいたときにぬります。おそらく、同い年くらいの男性と話しているときには、失礼だとおもって、リップクリームをぬらなかったのだとおもいます。あ、やさしく塗ったのか、そうか「やさしく塗った」という情報は、重要です。重要でかつ魅力的です。