2009年7月6日月曜日

必読短歌11(吉井勇・安永蕗子・井辻朱美)

 吉井勇は古い歌人ですが、湘南の若者を思わせるモダンな感性の表出からはじまり、心に煩悶を持ちながら芸者遊びに耽ろうとする実験的擬似遊び人の抒情をあえて演じて見せたところに特色があります。美から遠いものの多い世間や時代を、本音に生真面目な優しさを持つ人がどのように生きていこうとしたかを、よく見せてくれる歌です。
 安永蕗子は、熊本の大歌人。押しも押されぬ風格と繊細で厳しい叙情は、一首ごとに自他への批評ともなる歌風を作り上げました。たんなる新しがりや常套遵守だけでは短歌はいけないだろうと思う時、まず学ぶべき歌人のひとり。
 井辻朱美は、この浮き世の実生活をまったく歌わず、つねに宇宙の旅人のような視点で作歌していきます。この人の歌の味わいの位相は一般のそれとは大きく異なっており、宇宙船のアンテナの支柱を滑らかに走っていく太陽の光の輝きのメタリックに孤立した美しさに震えるような思いを持てるような人でなければ、十分には味読できないかもしれません。人生の外のものを日本語で把握しようとすること。短歌の形式をあくまで使い続けつつ、和歌に密着しながらも、和歌の外部であろうとすること、これがこの人の詩学です。


◆ 吉井勇(よしいいさむ) 一八八六~一九六〇◆

夏はきぬ相模の海の南風にわが瞳燃ゆわがこころ燃ゆ

夏の帯砂(いさご)のうへにながながと解きてかこちぬ身さへ細ると

海風(かいふう)は君がからだに吹き入りぬこの夜抱かばいかに涼しき

あだ名して孔雀と呼べるたをやめのきらびやかなる手に巻かれける

砂山に来よと書きこす君が文数かさなりて夏もをはりぬ

なでしこや大仏道の道ばたに君が捨てたる貝がらの咲く

或る朝のそぞろありきに拾ひたる櫛ゆゑ心みだれけるかな

百年(ももとせ)も覚めざるごとくよそほふかおのが若さにまこと酔へるか

かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる

つと入れば胸おしろいに肌ぬぎし君ありわれに往ねと云ひける

白き手ががつと現はれて蝋燭の芯を切るこそ艶めかしけれ

君とゆく河原づたひぞおもしろき都ほてるの灯ともし頃を

香煎のにほひしづかにただよへる祇園はかなし一人歩めば

舞ごろもMONTMARTREの夜の色をおもへとばかり袖ひるがへる

たはれをとそしらばそしれ美しきことのみわれは思へるものを

紅燈のちまたにゆきてかへらざる人をまことのわれと思ふや

宵闇はふたりをつつみ灯をつつみしづかに街のなかをながるる

柳橋から河見ればしょんがいな鷗が一羽飛んでゐるよの



◆ 安永蕗子(やすながふきこ) 一九二〇~◆

何ものの声到るとも思はぬに星に向き北に向き耳冴ゆる

つきぬけて虚しき空と思ふとき燃え殻のごとき雪が落ちくる

飲食(おんじき)のいとまほのかに開く唇(くち)よ我が深渕も知らるる莫けむ

紫の葡萄を運ぶ舟にして夜を風説のごとく発ちゆく

麦秋の村すぎしかばほのかなる火の匂ひする旅のはじめに

谺して一打の斧も熄むゆふべあな寂しもよ詩歌のゆくへ

ひとの世に混り来てなほうつくしき無紋の蝶が路次に入りゆく

かへり来てたたみに坐る一塊の無明にとどく夜の光あり

されば世に声鳴くものとさらぬものありてぞ草のほととぎす咲く

朝に麻夕には木綿(ゆふ)を逆らはず生きて夜ごとの湯浴み寂しゑ

到りつくいづこも闇と知るわれのまたうば玉の墨磨りはじむ

雪積みてふかく撓みしリラの枝ああ祖国とふ遠国ありし

落ちてゆく陽のしづかなるくれなゐを女(をみな)と思ひ男(をのこ)とも思ふ

喪乱ことのほかなる白蛾ゐて白蛾ならざるもの見えてをり

文芸は書きてぞ卑し書かずして思ふ百語に揺れ立つ黄菅(きすげ)

盛衰のなかなる衰のうつくしく岸に枯れゆくくれなゐぞ葭

以後のことみな乱世にて侍ればと言ひつつつひに愉しき日暮れ

朝霧の中ゆくことも只今の一存にして髪濡るるなり


◆ 井辻朱美(いつじあけみ) 一九五五~◆

海よりも湧く雲よりもはるかなる男声合唱夏の陽に死す

海に湧く風みなわれを思へとぞ宇宙飛行士の夜毎のララバイ

宇宙船に裂かるる風のくらき色しづかに機械(メカ)はうたひつつあり

光年のしずかな時間草はらにならびて立てる馬と青年

竜骨という名なつかしいずれの世に船と呼ばれて海にかえらむ

海という藍に揺らるる長大な椎骨のさき進化の星くず

ゆめに散る花ことごとく蒼くしてこの世かの世にことば伝えよ

純白の毛皮ふぶけるその胸の傷跡あまた星よりきたる

死にいたるまでの愛とふ言葉もて北半球に生(あ)れたる甲冑

水球にただよう小エビも水草もわたくしにいたるみちすじであった

楽しかったね 春のけはいの風がきて千年も前のたれかの結語

杳い世のイクチオステガからわれにきらめきて来るDNAの破片

雪の降る惑星ひとつめぐらせてすきとほりゆく宇宙のみぞおち

空港に腰かけてゐる 生まれる前にすべてが始まるのを待つてゐた席

しんじつにおもたきものは宙に浮かぶ 惑星・虹・陽を浴びた塵

青空に芯などあらぬかなしみにミケランジェロはダヴィデを彫りぬ

どんなにかあの紺青の天にある機体の翼の痛いつめたさ

かずかずのはるかさに生きるものたちよ 椰子の木 雨 そして飛行船