12月22日の授業で取り上げた歌人たちとその作品を載せておきます。ひとりひとり異なった背景を持ち、歌の発生においても同一ではないのですが、このあたりの歌人となると、文芸好きの人たちにとっても、実際は縁遠くなってしまっているのが現代短歌の現実。
我々のささやかな授業時間は、こういった作品群に、突発的な事故のように遭遇してもらってしまう場です。 文芸の特徴は、さっきまで知らなかった作り手や作品にふいに触れることによって、自分たちの内的世界がガラッと変わってしまうということ。短歌を読むという行為も、控え目に言っても、目や耳を通して入ってくる一首一首によって、内的世界の様相を変容させ続けていくことだと言えるでしょう。
他人の作ったものに触れることの喜び、救済。大袈裟ではなく、そう考えておくべき面が、文芸作品というものにはやはりあります。
◆小中英之(こなか ひでゆき) 一九三七~二〇〇一◆
昼顔のかなた炎えつつ神神の領たりし日といづれかぐはし
氷片にふるるがごとくめざめたり患むこと神にえらばれたるや
月射せばすすきみみづく薄光りほほゑみのみとなりゆく世界
遠景をしぐれいくたび明暗の創(きず)のごとくに水うごきたり
花びらはくれなゐうすく咲き満ちてこずゑの重さはかりがたしも
身辺をととのへゆかな春なれば手紙ひとたば草上に燃す
螢田てふ駅に降りたち一分の間(かん)にみたざる虹とあひたり
鶏ねむる村の東西南北にぼあーんぼあーんと桃の花見ゆ
死ぬる日をこばまずこはず桃の花咲く朝ひとりすすぐ口はも
つはぶきの花は日ざしをかうむりて至福のごとき黄の時間あり
六月はうすずみの界ひと籠に盛られたる枇杷運ばれて行く
無花果のしづまりふかく蜜ありてダージリンまでゆきたき日ぐれ
春をくる風の荒びやうつし身の原初(はじめ)は耳より成りたるならむ
今しばし死までの時間あるごとくこの世にあはれ花の咲く駅
芹つむを夢にとどめて黙ふかく疾みつつ春の過客なるべし
みづからをいきどほりつつなだめつつ花の終りをとほく眺めつ
花馬酔木いく夜か白しうらがなしふくろふ星雲うるむ夜あらむ
座につきてあはれ箸とる行為さへあと幾年のやさしさならむ
◆荻原裕幸(おぎわら ひろゆき) 一九六二~◆
政治がまた知らないうちにみづいろに傾いてぼくの世界を齧る
▼▼▼▼▼ココガ戦場?▼▼▼▼▼抗議シテヤル▼▼▼▼▼BOMB!
恋人と棲むよろこびもかなしみもぽぽぽぽぽぽとしか思はれず
春の日はぶたぶたこぶたわれは今ぶたぶたこぶた睡るしかない
天王星に買つた避暑地のあさがほに夏が来たのを報せておかう
ほらあれさ何て言ふのか晴朗なあれだよパイナップルの彼方の
はつなつのあをを含んで真夜中のすかいらーくにゐる生活を
三越のライオンに手を触れるひとりふたりさんにん、何の力だ
ぼくはいま、以下につらなる鮮明な述語なくしてたつ夜の虹
ぎんいろの缶からきんの水あふれ光くるくるまはる、以下略
戦争が(どの戦争が?)終つたら紫陽花を見にゆくつもりです
しみじみとわれの孤独を照らしをり札幌麦酒のこの一つ星
顎つよき愛犬を街にときはなつ銀色の秋くはえてかへれ
伝言板のこの寂しさはどんな奴「千年タツタラドコカデ逢ハウ」
母か堕胎か決めかねてゐる恋人の火星の雪のやうな顔つき
(結婚+ナルシシズム)の解答を出されて犀の一日である
月曜日の朝かへりきてノブのQOQOQQOQQOQ
間違へてみどりに塗つたしまうまが夏のすべてを支配してゐる
◆大辻隆弘(おおつじ たかひろ) 一九六〇~◆
指からめあふとき風の谿は見ゆ ひざのちからを抜いてごらんよ
疾風にみどりみだるれ若き日はやすらかに過ぐ思ひゐしより
十代の吾に見えざりしものなべて優しからむか 闇洗ふ雨
山羊小屋に山羊の瞳のひそけきを我に見せしめし若き父はや
青嵐ゆふあらし過ぎ街路樹にわが歌ひ得ぬものらはさやぐ
やがてわが街をぬらさむ夜の雨を受話器の底の声は告げゐる
あぢさゐにさびしき紺をそそぎゐる直立の雨、そのかぐはしさ
青春はたとへば流れ解散のごときわびしさ杯をかかげて
星合といふバス停にバスを待つぼくたち、夏の風をみつめて
朝庭に空き瓶を積むひびきして陽ざし触れあふごときその音
ほのしろき夜明けにとほき梨咲いてこのあかるさに世界は滅ぶ
あけがたは耳さむく聴く雨だれのポル・ポトといふ名を持つをとこ
つまりつらい旅の終りだ 西日さす部屋にほのかに浮ぶ夕椅子
子を乗せて木馬しづかに沈むときこの子さへ死ぬのかと思ひき
ああ父はまどかに老いて盗みたる梅の若枝(わくえ)を挿し木してゐる
縁さむくかがやく壺ゆひとすぢの乳(ち)はよぢれつつ注がれてゐつ
紐育空爆之図の壮快よ、われらかく長くながく待ちゐき
突つ込んでゆくとき声に神の名を呼びしか呼びて神は見えしか
2009年12月24日木曜日
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