2011年3月8日火曜日

ゆりえさんからコメントをいただきました。ありがとうございます。

◆授業には出てきていない「ゆりえ」さんから次のようなコメントをいただきました。
 コメントは、どこのコメント欄かわかりづらくなることもありますので、ここに再録させていただきます。ご了承のほどを。


◆「はじめまして。

コメントしてよいのかわかりませんが、本郷短歌会幹事、心の花会員の安田と申します。

1年ほど前、初めてこのサイトを見つけた時、早稲田にこんな授業があるのかと感動し、またうらやましく思いました。

学生短歌会の幹事として、また8年ほど短歌の愛好者?である身として、講義に参加なさっている方の歌や評など大変興味深く、ときどき覗かせていただいております。

また、必修短歌は本当に完成度が高く、選のセンスもさることながら、有名な歌のみならず、隠れた名歌が多いと感じています。短歌に興味があるお友達に、このサイトを紹介したりすることもあります。

個人的にもわたし好みの歌が多く、データ化して見直せるようにしています。

今回は、記事の内容(多くの部外者の方がご覧になっていること)などに励まされたのもあり、応援の意味をこめてコメントさせていただきました。

このような講義を継続なさるのは素晴らしいことだと思います。これからも応援しております。


最後に拙歌を少し。

朝なさなかなしみの実を食みこぼす鳩を胸内(むなち)に飼ひてゐるなり

をさな子に鶴の折り方示しをりあはれ飛べざるものばかり産む 」


◆ゆりえさん、いいお歌をありがとうございました。景とご自分の心とのあいだに、どのような意味でもごまかしのできない距離の涼しさを保ち、そうしてくっきりと生きていらっしゃる方。近代短歌の正統を継ごうともしていらっしゃる方ですね。
 「心の花」は早稲田とは繋がりの深い結社ですし、縁浅からぬものがあります。
 本郷短歌会というと東京大学の…でしょうか?そうだとすれば、こちらも、早稲田とはつねに行き来のあるところ。
 KUREMUTU CLUBとしては、のんびりした交流が生まれれば、と望みたいところです。
 
 
◆早稲田大学の第二文学部も今年で終わりになりそうで、やがてはこのKUREMUTU CLUBも、3D世界の教室空間から解脱して2D空間だけに生きていかねばならなくなりそうです。
 もとより、シバリのまったくない空間で、書きたい人が自発的に書くというだけの場所。それだけに、今年が本当に最後ともなりかねませんが、教室の外からご覧くださっている皆様、どうぞ、よろしく御贔屓のほどを。


◆そして、そして、……
 主導者も主宰者もいない短歌空間をKUREMUTU CLUBは作り上げてしまったのでもありますので、(事務上、維持者だけはワタクシがやっております)、どのような方でも作品をお送りいただいてかまいません。

 詩歌というのは、たしかに長い時間をかけて美的判定を重ねていく対象でもありますが、まずは自己申告の美学です。
 多勢に無勢であっても、作者が、これが美だ、これが詩だ、歌だ、と突きつけて見得を切るところに、妙味も価値も核心もあります。

 作者が突きつけてきたものの前で立ち止まって、「………」と無言になったり、まとまらない評を口したりしてしまう時間を大事にしたいものです。


◆KUREMUTU CLUBは、あまり批評をしないで、提出されるものは皆よし、という立場を採ります。
 これは、批評の軽視や、安易な自己流創作の承認のようにも見えるでしょう。

 しかし、あまりに多くの批評や批評的観点、そして批評家たち、そればかりか、美意識も価値観も倫理も、ごくごく短い時間のうちに溶解し、崩れ、人気を失い、無視されて消滅していったのをワタクシたちは見てきました。
 ホラチウスの名句、「ああ、ポスツマス、ポスツマス、歳月の過ぎゆくことのいかに早き(Eheu fugaces, Postume, Postume labuntur anni)」を思い出させられます。

 批評というのは、ある程度の真似事なら誰にでも簡単ながら、じつは極端に難しいことです。
 高浜虚子のこの言葉を忘れないようにしておきたいものです。
「自らいゝ俳句を作らないで、俳句論をするものがある。さういふのは絶対に資格が無い。俳句では、作る人が論ずる人であり得ない場合は多いが、論ずる人は立派な作家であるべきである」。

 だから、まずは作ること。
 それを人に見せてしまうこと。
 評価もほかの意見も貰えなくっても、とにかく次々作ること。
 あとは、
「行くところがわからないほど
 崇麗なものはないだろう
 すべて偶然の神託によるべきだ」(西脇順三郎『生物の夏』)
 という精神でいいのではないでしょうか。

 もちろん、菱川善夫のこんな言葉も忘れずに、ひそかに自戒の句としつつ。
「瞬間的な自己浄化に自足し、孤立している人間は、幼稚園児的殺し屋になるのがせいぜいであろう」(『急げ!歌の殺し屋』)
 とはいえ、集団というものを信じ、よき集団というものが作り得ると信じられていたかつての日本での菱川の発言は、今ではひどく時代がかったものに見えます。

 むしろ、群れるということを信じていなかったし、できもしなかったジャン・コクトーのこんな言葉のほうが、やはり力を与えてくれ続けるかもしれません。
「詩人が詩を書くのは、自分と同じ言葉を話す人間を見つけるためだ」。
 さっぱりしていますね。
 詩の定義のひとつとして、これだけ抜かりのない完璧なものも少ない。
 さすがです。