2009年6月24日水曜日

必読短歌10(春日井建・土屋文明)

  一首一首が鋭い遺書のような春日井建の歌は清々しさと潔さに満ち、一言一言に気品が漂います。ダンディズムと呼びたいようなこうした歌風は、意外と現代短歌には少ないものです。日本のふつうの世間の価値観や倫理を静かに完璧に拒み、たんなる歌人ではなく、まさに全霊の詩人として生涯を全うした人、という気がします。
  近代短歌のど真ん中に居た最後の本格派の大物、土屋文明。堅苦しいつまらない短歌ばかりかと思いきや、とんでもない、近代でも滅多に出なかったような破壊僧ふうの歌風でした。ちょっと多めに選んでおきましたが(それでも少なすぎる!)、必要とあれば韻律も歌の固定概念も平然と吹っ飛ばす天衣無縫の作り方をとくとご覧あれ。短歌を破壊してやるとか、新たな歌風を打ち立ててやるとか、気炎を吐く前に、短歌そのものを演じ切って100歳まで生きたこの怪物の歌をよくよく読み込んでおきましょう。


◆ 春日井建 (かすがい けん) 一九三八~二〇〇四年◆

大空の斬首ののちの静もりか没(お)ちし日輪がのこすむらさき

童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり

太陽が欲しくて父を怒らせし日よりむなしきものばかり恋ふ

弟に奪はれまいと母の乳房をふたつ持ちしとき自我は生れき

いらいらとふる雪かぶり白髪となれば久遠(くおん)に子を生むなかれ

青嵐過ぎたり誰も知るなけむひとりの維新といふもあるべく       

爾後父は雪嶺の雪つひにして語りあふべき時を失ふ

男とや沈めとや水圏に棲むものの冷たかりける皮膚の誘へる
 
仰向けの額に晩夏の陽は注ぎ微笑まむ若年といふは過ぎきと 

死ぬために命は生るる大洋の古代微笑のごときさざなみ

今に今を重ぬるほかの生を知らず今わが視野の潮しろがね
 
死などなにほどのこともなし新秋の正装をして夕餐につく

いづこにて死すとも客死カプチーノとシャンパンの日々過ぎて帰らな

今年また見しといふ程の花ならずさるすべりの白群がりて咲く

椅子に凭(よ)る老人が父たりしこと思ひ出づかの夜の地下鉄

てのひらに常に握りてゐし雪が溶け去りしごと母を失ふ
 
打ち寄せる波の白扇見てあれば礼節を知れといふ声はして
 


◆土屋文明 (つちや ぶんめい) 一八九〇~一九九一◆

細(ほそ)より尾根を横行き冬野の道教へし娘を上村老人覚えてゐる       
  
知事筆を揮ひて家持の歌碑を立てり泥を飛ばしてトラック往反す

富の小川佐保川に合ふところみゆ二川(ふたかは)静かに霧の中に合ふ

立ちかへり立ちかへりつつ恋ふれども見はてぬ大和大和しこほし     
  
老あはれ若きもあはれあはれあはれ言葉のみこそ残りたりけれ
  
年々に若葉にあそぶ日のありてその年々の藤なみの花

望(もち)の夜(よ)の月はいでむと水の音の静けき山の下をてらしぬ          

ゆふがほの葉下(はした)にのびて覚束(おぼつか)な豆の花には露のしたたる

貧と窮と分ち読むべく悟り得しも乏(とも)しき我が一生(ひとよ)なりしため        

消極に消極になるを貧の慣(なら)はしと卑(いや)しみながら命すぎむとす         

人を悪(にく)み人をしりぞけし来し方(こしかた)もおぼろになればまぬがるるらむ

ふらふらと出でて来りし一生(ひとよ)にてふらふらと帰りたくなることあり

生みし母もはぐくみし伯母も賢からず我が一生(ひとよ)恋ふる愚かな二人

母に打たるる幼き我を抱へ逃げし祖母も賢きにはあらざりき

乳足らぬ母に生れて祖母の作る糊に育ちき乏しおろかし

寺を出でて冬の日しづかに歩みゆく妬(ねた)みも無けむ生きてゐることは 
 
テグスに代るナイロンも上等は惜しむといふ茜(あかね)さす夕凪(ゆふなぎ)の海に向ひて

葵藿(きかく)の葵(あふひ)ははたしてフユアフヒなりや否や苗を収めて来む春に見む  

葵藿の葵をヒマハリとする博士等がまだ絶えないのも仕方がない

船ゆかずなりたる水は竪川(たてかは)も横川もなべて浮く木の溜め場

この河岸(かし)に力つくしてあげし飼料或る時は藁(わら)在る時は甘藷澱粉糟(かんしよでんぷんかす)

木綿(もめん)織らずなりし真岡の町出でて田圃(たんぼ)道には箕直(みなほ)しが歩いてゐる

過ぎし人々いかにか山の湖(うみ)に上り来し別して明治四十二年左千夫先生 

下り立ちて川見る時に嫗(おうな)来て橋の上よりごみを投げ込む

時雨来む七尾(ななを)の海に能登島に乗らむ船待つ牛乳を飲みて

原爆をまぬがれし与茂平亡きことも赤電話して知る関係なき菓子店に

敷物も代へたのにゴキブリは不思議不思議子等は言へどもまこと出ありく 

背のはげし本の膠(にかは)はゴキブリの好(よ)き餌(ゑさ)といへど防ぐ術(すべ)なし

寝台古(ふ)りわらやはらかに馴(な)れたればここを城とし籠るゴキブリ

置く毒に中(あた)り死にたるゴキブリか後を頼むとわが枕がみ

眠る前の面に来りて散歩するゴキブリを憎む無告の被害者

何の為にゴキブリ我がまはりにはびこるか背のはげ並ぶ本を見るかな

本郷新花町(しんはなちやう)七十年前貸二階(かしにかい)に我を攻めしは小形のゴキブリ

食をつめる如き明け暮れの幾月か我とゴキブリ残し世帯主は夜逃(よにげ)

蚊が来なくなりしと思へばゴキブリか吝(をし)みつづける暖房のため